アーリーリタイア徒然草

50歳でアーリーリタイアしました。アーリーリタイアについて心に思うことを書き連ねていきます。

ラットレース(回し車)からの脱出

以前に「金持ち父さん貧乏父さん」の話について、ブログを書いたことがあります。
そのときにラットレースという言葉を思い出しました。
書籍の中では、働いても働いても苦しい生活から抜け出せない状態を、回し車のなかを走り続けるネズミにたとえ、ラットレースと呼んでいます。


私も、自分の仕事が、かごの中の回し車のように感じたことことがあります。
ただ、「金持ち父さん貧乏父さん」のラットレースとは、多少意味が違います。
以下は、過去に書いたブログからの抜粋です。

20代、30代前半の頃の私は、アーリーリタイアを考えることは全くありませんでした。

その頃は、自分にとって未知の分野、あるいは、新しい取り組みにチャレンジしたい、という気持ちが旺盛だったこともあり、仕事を通して、知的好奇心を刺激されたり、達成感や充実感を感じることもあり、それが仕事への意欲にもつながっていたと思います。

30代後半、40代の頃になると、以前に同じような条件・環境で同じような仕事をしたことがある、ということが続くと、自分が同じ場所をぐるぐると周り続けているような気分になることがありました。

全く同じではないのですが、それでも似たようなものだと感じると、仕事が新鮮味の無いルーティンのように思えてきます。

新鮮味の無いルーティンには、達成感や充実感を感じることはなく、知的好奇心や仕事への意欲を刺激されるわけでもありません。

その新鮮味の無いルーティンを今後も何年も続けるのか、と想像すると面白味の無い年齢の重ね方だと思うようになります。

仮に早朝から深夜まで仕事をしていたとしても、充足感が満たされていない時間を過ごすだけです。

そのような毎日を過ごしていても、意味を感じられず、虚無感に覆われていきます。

私の場合、充足感が満たされていない仕事からくる虚無感から脱出する手段がアーリーリタイアだったのかもしれません。


当時の私は、かごの中の回し車のように同じ場所をぐるぐると回り続けているように仕事をすることに対して、新鮮味を感じることが出来ず、達成感も充実感も感じることが出来ず、その虚無感からの脱出をしたいという欲求がありました。


その虚無感からの脱出がアーリーリタイアでした。



一方の回し車の中の本物のねずみは、回し車が楽しくて、報酬が無くても、回し車を回し続けるんですよね。
本物のねずみにとっての回し車は娯楽の一つのようなもので、そこが人間の回し車とは全く違います。


「金持ち父さん貧乏父さん」の著者のロバート・キヨサキによれば、ラットレースは、働いても苦しい状態から抜け出せない例えです。
私の過去のブログでは、回し車とは、仕事をすることに対して、新鮮味、達成感、充実感も感じることが出来ない状態です。


どちらも、楽しくて、回し車を回している訳ではありません。
そういう意味では、楽しさを求めたねずみの回し車とは、全く異なる性質のものです。
楽しくもなく、苦しさ、息苦しさに耐えながらという人間の回し車は、生活費を稼ぐための苦行のようにも感じます。


だから、私はもう生活費を稼ぐ必要がないと気付いたときに、回し車を回すことを止めました。