アーリーリタイア徒然草

50歳でアーリーリタイアしました。アーリーリタイアについて心に思うことを書き連ねていきます。

老後は公的年金だけだったら?

私は、公的年金以外にも企業年金、個人年金があり、さらに運用益があります。
通常ならば、アーリーリタイアすると定年まで働いたときと比較すると厚生年金加入期間が短くなるので、公的年金の受給額が少なくなります。
しかし、私の場合は、公的年金の受給額の目減りした分を企業年金が補うかたちになります。
さらにそこに個人年金と運用益が上積みされます。
(運用益は控えめに見ることにしているので、将来の収支で当てにしているのはインカムゲイン(配当・利息)のみです。)


そうすると、年金を受給する頃の収支は、それほど節約を心掛けなくても、収支が拮抗するか、それに近い状態になります。
万が一、不測の事態による出費(ケガ、病気など)があっても、金融資産を取り崩せば、大部分の場合は経済的には乗り切れます。


そんな目途があって、アーリーリタイアをしたわけです。


一方で、私と同世代の人でも、老後の収入は公的年金のみ、金融資産はほとんどない、という人もいます。
他人の心情は分かりませんが、経済面で心細いだろうな、と推測します。
実際に私よりも明らかに年齢が上の60代、ひょっとしたら70代の人でも働いている人は多く見かけます。



ときどき、私が老後の収入は公的年金のみだったら、アーリーリタイアしたのかな、どうなんだろう、と考えることがあります。
仮に金融資産が今と同額程度であっても、資産運用の知識が無ければ、インカムゲインも乏しく、毎年金融資産を取り崩して生活費にあてて、金融資産が減少していくのは心細くなるでしょうし、公的年金を受給するようになっても金融資産の減少は鈍化こそするが、止まらない、という状態です。


そういう中でアーリーリタイアしたか、どうか、私自身にもわかりませんが、確実に言えることは、仮にアーリーリタイアを決断したとしても、今ほど、精神的に余裕がない中で
生活していることになります。


賃金労働からの解放の代償が、生涯の経済的な懸念だったり、精神的な余裕の無さだったりとすると、その代償はやはり大きく、自分の求めていたアーリーリタイア生活とは異なります。


経済的な余力と賃金労働からの解放が揃って、はじめて、精神的にも余裕があるアーリーリタイア生活となります。